2010.04.26(月)
浦臼町の「三日月湖・鶴沼公園」(龍馬の一族が移住した街)







久し振りの好転に恵まれ、日帰り温泉に出かけた。道内の温泉は、くまなく行き尽くし、最も過疎といわれる空知地方(道庁改革で空知支庁から現空知総合振興局)の浦臼町の道の駅「つるぬまの湯」に向かった。信号もなく札幌から一時間半で着く。途中豪華な「月形刑務所」(旧樺戸集治監)を通り過ぎ浦臼まではただ広大な原野の中に、農家が散在しているだけである。しかし、樺戸連峰の山肌を覆う残雪は小さなヒマラヤ連峰を見るかのようで、見事な景観である。
浴槽は小規模であったが、食堂や浴槽から真下に眺望できる「つるぬま公園」の池はたまらない癒しと成った。桜の季節には格別の景色だろうと思い残念でした。玄関を入り驚いたのは、竜馬の大きな写真が飾ってあるのだ。何故だろうか?と疑問を持った。帰宅して調べてみると下記の通りの理由があった。
「坂本竜馬は3度、北海道開拓を目指したといわれます。
「新天地で農業や漁業を振興させたい」――
幕府の弾圧や船の座礁、近江屋での刺客により、竜馬らしい壮大な夢は叶うことはありませんでした。
現在、竜馬が生まれた土佐の高知に、竜馬の子孫はいないといいます。
なぜなら、坂本竜馬の系列一族が、浦臼町に移住したためです。
明治29年、北海道開拓を目指した坂本竜馬の意を受けた甥・坂本直寛は、北見を視察する途中、浦臼の聖園農場に立ち寄ります。
これを機に明治30年、直寛は4人の子どもを連れて浦臼町の浦臼沼の北側に移り住みました。
その後、高知では、坂本龍馬の養子・高松太郎が没したため、妻の留とご子息が、坂本直寛を頼って浦臼町に移住、没するまで浦臼町で駄菓子屋を営みつつ、浦臼町の発展に尽力したといいます。
(坂本竜馬の系列の子孫は、その後、東京に移住したとされます)(浦臼町HP)
▲龍馬は薩長同盟を成立したときの、ヒーローであり、今も広く国民に慕われている。しかし「歴史は後で作られる」というとおり真実は意外性も含まれているものだ。薩長同盟は、龍馬が一人で画策したのではなく、薩摩の、西郷が脱藩浪士の、龍馬に長州に使者として交渉させたのである。
今の米国の、CIAのエージェントのような立場であった。勿論、勝海舟から龍馬の人格、能力の高さを知らされていたから、利用したわけで、龍馬が実質、桂小五郎を説得した事実は否定できない。
幕府から警戒されていた薩摩藩は脱藩浪士の龍馬を主役に立てることが都合も良かったわけだ。
いざというときの、逃げにしようとしていた節がある。
しかし、自由人の活動力のある龍馬は維新の立役者には違いない。とかくヒーローは伝説化されやすく、浦臼の記録も100%真実とも限らないのではないかと思った。
いずれにしても、維新を見ずに、何者かに殺された、竜馬の求めた「自由と平等」が今の世の中、生かされているかは疑問符がつく。
浦臼町は明治20年樺戸集治監の囚人によって、月形~晩生内間道路を開削した
ことにより未墾の地に開墾の鍬が入り明治32年には月形村より分村、平成22年には
開町111年、町制50年を迎える。
本町は、北海道の中西部、空知管内のほぼ中央に位置し、面積101.08キロ平方
メートルで人口2200人くらい、樺戸連山と雄大な石狩川に挟まれ、いくつもの川や沼が点在する
ほぼ平坦な地形で、気候も高温適雨で農業に最適な環境にあるが、冬は雪が多く
平年降雪量は13メートル~14メートルに達する。 函館本線にほぼ並行して石狩川右岸を通っている。
札沼線という名称は、札幌駅と、かつての終点だった留萌本線石狩沼田駅から一文字ずつ取ったものである。ただ、1972年に新十津川 - 石狩沼田間が廃止されたため、札沼線という路線名が意味をなさなくなっていたこと、沿線に北海道教育大学札幌校や北海道医療大学など、学校が数多くあることから、1991年3 月16日から学園都市線という愛称が付けられた。なお、列車内などで行われる乗り換え案内においても、正式名称の「札沼線」ではなく「学園都市線」が用いられている。
889年に起きた奈良県吉野郡十津川村での十津川水害の被災民がトック原野に入植し新十津川村と称した。この関係で十津川村とは同じ町(村)章を用いている。
ことにより未墾の地に開墾の鍬が入り明治32年には月形村より分村、平成22年には
開町111年、町制50年を迎える。
本町は、北海道の中西部、空知管内のほぼ中央に位置し、面積101.08キロ平方
メートルで人口2200人くらい、樺戸連山と雄大な石狩川に挟まれ、いくつもの川や沼が点在する
ほぼ平坦な地形で、気候も高温適雨で農業に最適な環境にあるが、冬は雪が多く
平年降雪量は13メートル~14メートルに達する。 函館本線にほぼ並行して石狩川右岸を通っている。
札沼線という名称は、札幌駅と、かつての終点だった留萌本線石狩沼田駅から一文字ずつ取ったものである。ただ、1972年に新十津川 - 石狩沼田間が廃止されたため、札沼線という路線名が意味をなさなくなっていたこと、沿線に北海道教育大学札幌校や北海道医療大学など、学校が数多くあることから、1991年3 月16日から学園都市線という愛称が付けられた。なお、列車内などで行われる乗り換え案内においても、正式名称の「札沼線」ではなく「学園都市線」が用いられている。
889年に起きた奈良県吉野郡十津川村での十津川水害の被災民がトック原野に入植し新十津川村と称した。この関係で十津川村とは同じ町(村)章を用いている。