2010.09.06(月)
広瀬六段(23歳)が初タイトル 4勝2敗で深浦王位を下す




3期連続王位防衛のタイトルを9月1・2日(水・木)に神奈川県秦野市「陣屋」で行わた七番勝負第6局聞)は、千日手・指し直し局を161手で先手の広瀬章人六段が勝ち、4勝2敗で王位のタイトルを奪取しました。終局は午後9時37分。広瀬章人六段は、自身初のタイトル奪取です。 (西日本新聞)
このところ、将棋界も戦国時代を迎えた。七大タイトルを羽生三冠、久保二冠、渡辺竜王、そして現役の早大4年の広瀬六段の4人で占めている。一時は、羽生名人が七大タイトルを独占していたことも在った。如何に偉大な
記録であったかが分かる。将棋は順位戦と言う階級制があり、C2級,から「唯一名人になれるA級」迄六階級がある。だからA級以外からは絶対名人には為れないのである。
この度、王位を獲得した広瀬六段はまだC1組の棋士である。名人以外は、各組で、優勝、準優勝して本戦トーナメントで勝ちあがれば、タイトルを獲得できるシステムである。最近は、棋界も、改革されアマチユア棋士でも参加でき一気にタイトルを獲得できるのである。アマチユア棋士と言っても元はプロ棋士を目指して奨励会を年齢制限で退会した棋士が多い。連盟も経営難からスター誕生を願って世論の人気を取りフアン層の拡大を願っているのだ。日本伝統文化の囲碁、将棋界の発展と繁栄を国を挙げて育成する制度が必要かと思う。
早稲田大学は、将棋部が伝統的に強い。早大>立命館>東大>北大が大学選手権の上位を占める常連である。過去早稲田出身の棋士は一番多い、初代連盟会長の加藤治郎はじめ、猫騒動で騒がれた天童と言われた、加藤一二三元名人
丸山元名人と、数え上げればきりがない。しかし、現役の大学生が、タイトル獲得した事例は過去にない。
広瀬六段の偉業は長く歴史に刻まれるであろう。将棋は頭脳競技であり、頭の良し悪しが物を言うかもしれない。
現連盟会長の、49歳での最長年齢、名人位獲得をした、米永邦夫は「兄弟は頭が悪いから、皆東大に行った」「俺は頭がよいから棋士になった」と言い世間の名言になったが、中央大学の商学部に入学した変わり者である。笑)しかし彼は中々の博学であり、中国史、教育論の分野で認められている。東京都の、教育委員も歴任している。
早稲田は不思議な大学で、ラーメン屋さんから、総理大臣までを輩出している学校である。
東京法律学校「現早稲田大学)の創立者大隈重信の官立大学と違った自由な開かれた校風が産んだ賜物かもしれない。将棋部の綱領には棋道の遵守、人格の形成、文化の発展を期しているが初めからそのために、将棋を始めるものはいないと思う。後からついてくるものなのである。だから、教育と言うものは、私立の開放的気風が官立の、堅物より、幅広い人物を育成するものだと今回の、広瀬王位獲得に、深く感銘した次第である。
加藤 治郎(かとう じろう、1910年6月1日 - 1996年11月3日)は昭和期の
将棋棋士。棋士番号14。東京都港区出身。
早稲田大学卒業。初の大学出身のプロ棋士となる。山本樟郎八段門下。
早稲田大学在学中に大学将棋部第一号とされる早大将棋研究会を立ち上げた。
早大卒業後奨励会に付け出し三段で入会し大学出身者初のプロ棋界入りとして
話題となる。
当時は棋士の社会的評価が低く、これを意外と見る人も多かった。
叔母などには「大学まで出ながら情けない」と嘆かれたという。
順位戦でA級から降級したのを期に三十代で引退。高柳敏夫と共に
潔い去り際として知られる。
引退後は観戦記者として活躍。三象子等のペンネームで棋聖戦や王座戦など
の観戦記を執筆。その間日本将棋連盟会長を2期務めた。
名著「将棋は歩から」の著者として知られる。同著書内に記述されている
「タレ歩」「ダンスの歩」など歩の手筋の名付け親として有名。
また「陽動振飛車」「ガッチャン銀」「ちょんまげ美濃」「駅馬車定跡」
「箱入り娘」の名付け親は加藤一二三である。なお、「ちょんまげ美濃」に関して
は加藤は気に入っておらず、「この呼び方はわれながらいかにもまずい」と
いい、誰かいい名前をつけて欲しい旨の微妙な発言を残している。
観戦記は名文として坂口安吾から激賞された。また、将棋の理論的分析
について菊池寛から高い評価を受けている。菊池は「将棋は歩から」の序文も
執筆した。
弟子に原田泰夫、木村義徳、真部一男らがいる。
「加藤一二三」
加藤 一二三(かとう ひふみ、1940年1月1日 - )は、将棋棋士。
棋士番号64。福岡県嘉穂郡稲築村(現・嘉麻市)出身。
剱持松二八段門下(元々南口繁一九段門下だったが、
後年荒巻三之九段門下となる。剱持は代師匠)。
早稲田大学二文卒業
史上最年少で棋士になったのみならず、史上最年少でA級棋士となり、
さらには史上最年少で名人挑戦者となったため、「神武以来の天才」
と呼ばれた。
一時「加藤一二三四段」となり、漢数字の並びが話題となった。
プロ棋士となって50年を超え、現役最古参の棋士である
(最年長は有吉道夫だが加藤のほうが棋士番号が若い)。
クリスチャンであり、ローマ法王ヨハネ・パウロ2世から
聖シルベストロ教皇騎士団勲章を授与されている。
1981年の十段戦で、加藤は午後のおやつに「ケーキにホットミルク、
それにりんご」を注文、挑戦者の米長邦雄は対抗して
「みかんをお盆に山盛り」注文し盛大におやつを食べあい、
おやつ競争に勝った加藤が米長を破る。
立会人を務める対局の際、控室の縁側に侵入した猫に
「ハロー! 将棋に興味あるかい?」と質問した。
獲得タイトル
名人 1期(第40期)
十段 3期(第7期・19期 - 20期)
王位 1期(第25期)
棋王 2期(第2期 - 3期) (早稲田大学将棋部HPより引用)
将棋棋士。棋士番号14。東京都港区出身。
早稲田大学卒業。初の大学出身のプロ棋士となる。山本樟郎八段門下。
早稲田大学在学中に大学将棋部第一号とされる早大将棋研究会を立ち上げた。
早大卒業後奨励会に付け出し三段で入会し大学出身者初のプロ棋界入りとして
話題となる。
当時は棋士の社会的評価が低く、これを意外と見る人も多かった。
叔母などには「大学まで出ながら情けない」と嘆かれたという。
順位戦でA級から降級したのを期に三十代で引退。高柳敏夫と共に
潔い去り際として知られる。
引退後は観戦記者として活躍。三象子等のペンネームで棋聖戦や王座戦など
の観戦記を執筆。その間日本将棋連盟会長を2期務めた。
名著「将棋は歩から」の著者として知られる。同著書内に記述されている
「タレ歩」「ダンスの歩」など歩の手筋の名付け親として有名。
また「陽動振飛車」「ガッチャン銀」「ちょんまげ美濃」「駅馬車定跡」
「箱入り娘」の名付け親は加藤一二三である。なお、「ちょんまげ美濃」に関して
は加藤は気に入っておらず、「この呼び方はわれながらいかにもまずい」と
いい、誰かいい名前をつけて欲しい旨の微妙な発言を残している。
観戦記は名文として坂口安吾から激賞された。また、将棋の理論的分析
について菊池寛から高い評価を受けている。菊池は「将棋は歩から」の序文も
執筆した。
弟子に原田泰夫、木村義徳、真部一男らがいる。
「加藤一二三」
加藤 一二三(かとう ひふみ、1940年1月1日 - )は、将棋棋士。
棋士番号64。福岡県嘉穂郡稲築村(現・嘉麻市)出身。
剱持松二八段門下(元々南口繁一九段門下だったが、
後年荒巻三之九段門下となる。剱持は代師匠)。
早稲田大学二文卒業
史上最年少で棋士になったのみならず、史上最年少でA級棋士となり、
さらには史上最年少で名人挑戦者となったため、「神武以来の天才」
と呼ばれた。
一時「加藤一二三四段」となり、漢数字の並びが話題となった。
プロ棋士となって50年を超え、現役最古参の棋士である
(最年長は有吉道夫だが加藤のほうが棋士番号が若い)。
クリスチャンであり、ローマ法王ヨハネ・パウロ2世から
聖シルベストロ教皇騎士団勲章を授与されている。
1981年の十段戦で、加藤は午後のおやつに「ケーキにホットミルク、
それにりんご」を注文、挑戦者の米長邦雄は対抗して
「みかんをお盆に山盛り」注文し盛大におやつを食べあい、
おやつ競争に勝った加藤が米長を破る。
立会人を務める対局の際、控室の縁側に侵入した猫に
「ハロー! 将棋に興味あるかい?」と質問した。
獲得タイトル
名人 1期(第40期)
十段 3期(第7期・19期 - 20期)
王位 1期(第25期)
棋王 2期(第2期 - 3期) (早稲田大学将棋部HPより引用)