太宰治と「メリイクリスマス」

今日はクリスマスイブであるが、牧師が寿司を食べ日本酒で祝い、僧侶がケーキを食べキリストを祝福する平和な国である。聖書を深く愛読した太宰も黄泉の世界からさぞ、南無阿弥陀仏と合掌して笑っていると思う。(笑)
私にとってはクリスマス景気とは到底思われなく、「苦悩してイマス」というのが本音です。安倍閣下いかが?
  
 
            「風紋五十年」の概略
「東京・新宿にあるバー「風紋」は、かつて檀一雄、中上健次、辻まこと、古田晁などが足繁く通い、「文壇バー」と呼ばれている。ほかに、井伏鱒二、色川武大、井上光晴、庄野潤三……名前を挙げたらキリがないほどだ。もちろん、出版関係・美術関係者も集い、夜な夜な宴会は繰り広げられた。
その風紋は2011年、開店五十年を迎えた。お店を切り盛りしてきたのは、林聖子。青春時代に、太宰治の短編小説「 メリイクリスマス」のモデルになったり、若いうちに身の回りの人の死が続くなど、波乱万丈の人生を歩む。」

「林聖子の人生」
林倭衛(はやし しずえ)林富子の別れた夫・・・作家の有島生馬氏が回想記を遺しているが、零落した士族の次男を父に持ち、小学校を出ただけで、二科会展で画壇に登場し、やがてフランスに渡り、モンパルナスに近い安アパートに住んでルーブル美術館に通って西欧美術にひたった。明治28年6月1日に上田に生まれている。聖子さんは長女。、太宰が安心してつき合っていた、おそらくはただひとりの女性である。女学生の頃から、聖子は太宰に可愛がられていたが、ニ十二年の春、太宰の紹介で新潮社に入社し出版部に配属された。新宿で52年間にわたってバーを経営している、林聖子さんは86歳 その林さん お母さん(林富子、太宰と同じ年)が太宰の知り合いで、近所に住んでいたことから太宰と親交がありました。
太宰の短編小説 メリークリスマスで林さんは小説の中のヒロインのモデルにもなっています。お母さんの富子さんが太宰と知り合いだったが、  母が父と離婚した後に、新宿のバーに勤めだして、そこは作家の方がお見えで、そこで太宰さんと最初にお会いしたのが、初めなんです。
そのころは父の方に一緒に住んでいた 。 母のところに泊りがけで行っていたが、太宰さんも時々ご一緒されました。

詳細は「林聖子(風紋・バー経営者) ・太宰を想う」に記載されている。秋田宏さんから引用しました。
lhttp://asuhenokotoba.blogspot.jp/2013/06/blog-post_19.html

<「回想 太宰治」 野原一夫>

昭和23年6月15日の朝、野原一夫は、会社を飛び出し、飯田橋駅から中央線で三鷹へ向かいます。
「…三鷹駅の階段を駈けおり、改札口を出ると、そこに、桜井浜江さんと林聖子さんが立っていた。聖子さんは私を見ると泣きそうな顔をした。桜井さんは唇をかんでうつむいた。
「太宰さんがいなくなったって、どういうこと?」
 聖子さんは息を呑みこむようにしてから、
「駄目らしいの。」
「駄目?」
「いきなりショックを与えてはいけないと思って、いなくなったって言ったんだけど……死んじゃったらしいの。」
 血の気の引いていくのが、自分でわかった。…」
 この当時に太宰と関連のあった方々は皆何かを感じていたのだとおもいます。体調もかなり悪くなっていますから、ひょっとして、とおもってしまいます。林聖子さんは「風紋」の聖子さんのことです。

▼先日のテレ朝で太宰と林聖子さんのことが報道され、興味深く見入りました。今年で太宰生誕105年を迎えますが、太宰を知っている唯一の生き証人と言われています。太宰の遺体があがった玉川上水でも立ち会っています。
津軽旅行をして三鷹に帰宅、22年に発表された「メリイクリスマス」の「シズエ子ちゃん」のモデルとなったのが林聖子さんである。
「メリイクリスマス」の一節
・・・母と子とに等分に属するなどは不可能な事である。今夜から私は、母を裏切って、この子の仲間になろう。たとい母から、いやな顔をされたってかまわない。こいを、しちゃったんだから。「いつ、こっちへ来たの?」と私はきく。「十月、去年の。」「・・・<太宰治「メリイクリスマス」青空文庫>

2年ぶりに再会した聖子さんに着物姿の太宰さんが帰京第一作の『中央公論』新年号を取り出し、『これは、ぼくのクリスマスプレゼント』といった。母と聖子さんは、頬を寄せながら『メリイクリスマス』を読んだという。当時の親交ぶりが、生々しく語られました。小説の中で歩きながら語った話と同じ内容であったと語っていました。太宰文学は文体が簡明で、洒落ていてキザなところもありますが、弘前高で3年間暮らした今官一(こんかんいち、作家、桜桃忌の名ずけ親)は「見栄っ張りで強情で、照れ屋の底抜けのダンディズムは津軽特産である」と言っている。聖子さんが始めて逢ったのは18歳の女学生である。「メリイクリスマス」を読むと可愛い綺麗な少女で太宰も恋したのかもしれません。
聖子さんは「照れ屋ですからね^^聞いたらタバコをすって横を向いていたようです・・」と語った。現在でも若く綺麗な聖子さんのことは「回想 太宰治」 野原一夫を読むとよく分かります。「饗応夫人」「メリイクリスマス」の回想で・・。
桜井浜江さんも林富子さんと同じく「唯一の人」といえ散々飲食の供応を受けた複雑な男女関係の無い恩人である。

太宰治は津軽の大地主の六男として生まれ、生まれながらの日陰者であったが、昭和初年の当局の弾圧化の中、「日陰者」のような存在であった左翼運動に近づき脱落して遺書のつもりで書いた第一創作集のタイトルは「晩年」(昭和11年)という。この時太宰は27歳だった。いわば「晩年」から始まり「人間失格」で最後の晩年で終わったのです。戦後「斜陽」(昭和22年)は大きな反響を呼び、若い読者をひきつけた。敗戦直後に書いた『十五年間』に「私は、サロン芸術を否定した。サロン思想を嫌悪した。」と時代に歩調を合わせたジャーナリズムへの傾向への憎悪、反発、抵抗、を表現し、世のすねもの、余計物として(無頼派)を創り上げたといえます。家、既成社会に抵抗して退廃の末、敗退したかに見えるが誇りを持って人生を全うしたと思う。。だから永遠に太宰文学は不滅なのです。

「ハロー、メリイ、クリスマアス。」             

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太宰とルノワールの『ジャンヌ・サマリーの肖像』



太宰image


私たちも人生の壁に遮られた時、いっそう孤島にでも逃げたいと感じる時、太宰の文章の巧妙な魔力が私達読者の悩みを解決したかの錯覚を覚えさせるのが「太宰文学」と思うのである。

昭和の暗い谷間の時代に生き、一人で命懸けで文学と死闘してその時代の苦悩を人間の本質まで掘り下げた哀切な作品が若い心をとらえて離さないのだと思う。

太宰は当時の文壇に一人で挑戦状をつきつけた孤独な戦士なのです。 太宰は生と死のギリギリのところで書いている。だから、今も読むと不思議な感動を与えてくれるのだと思う。

太宰は既成の小説は「教科書的な嘘の道徳観だと」強く嫌悪感を抱いていたのです。特に戦後に、昨日までの国家主義者が、一夜にして自由主義者に変貌する文壇にも強い虚偽感を見出したのである。古い道徳と戦い自らは「捨石」となったともいえるのです。

だから、死の直前「如是我聞」で志賀直哉に対し、驚くべき毒舌を吐いたのだです。「暗夜行路」がどこが苦悩だと言うのだ。「大袈裟な題を付けたものだ。この作品のどこに暗夜があるのか。それは嘘で、甘い家庭生活、安易で楽しそうな生活が魅力になっているらしい」と感情の異常な塊りなのです。学習院出の志賀直哉の「自己肯定のすさまじさ」に捨て身の挑戦を挑んだのです。そしてさらに「重ねて問う。世の中から、追い出されてもよし命かけて事を行うは罪なるや」「最後に問う。弱さ、苦悩はつみなりや」と激しく攻撃したものの、彼は「どうにも負けそうで、心細い」となることがしばしばあった。
太宰中期の作品は戦況が悪化して行く時代であまりリアルな作品が書きににくい時代でもあり、「新ハムレット」「駆込み訴え」「走れメロス」等のパロディ作品が増えてくるのですねー。古典、史実、狂言等を土台として滑稽、風刺のきいたものだがきわめて明るく健康的作品である。1945年の「お伽草紙」が最もパロディ作品で太宰の縦横無尽な想像力を発揮された(虚構)(道化)の本格作品であった。しかし、世間で指弾され、嫌われ、批判されているこの文学手法に対し物質上の豊かさより、精神の豊かさを良しとし、「精神の貴族」。心の王者たらんと進んでいくのである。戦後の自伝的告白作品の三部作「ビヨンの妻」「斜陽」「人間失格」も「精神の貴族」をテーマとしていると思う。その精神が「如是我聞」にまで引き継がれ物質中心の功利主義、専ら真面目に生活する現実生活への批判ともなっていくのである。

そして自らの生が最大の危機に直面している事を悟り、苦悩に満ちた前半生を、文学作品として造形し、自己の過去を振り返って検討し直し生まれた作品が(人間失格)なのです。
いわば、精神の自叙伝でもあるのです。文字通り人生の敗北者の受難の記録でもあると思うのです。

ところで、このプーシキン美術館でのルノワールの『ジャンヌ・サマリーの肖像』と隣の「斜陽」のヒロインかず子のモデル太田静子の肖像画はどこか、タッチが似ているとは思いませんでしょうか?‼
昭和16年太宰が32歳の時に静子(27)は二人の女性と太宰の家を初めて訪れた時の顔を描いたものである。太宰は不在であったが、煙草をふかしながら帰ってきた。妻美智子と生まれたばかりの長女園子がいる家庭だったので、いくら愛想の良い太宰でもあまり歓迎はできなく静子は淋しく帰ったのでした。その後も密かに文通をし、昭和22年2月、神奈川県下曽我に住む太田静子を訪ね、一週間ほど滞在した。その時身籠もってできた子供が作家太田治子である。
太宰はあらゆる知識を自分の頭脳に蓄え「何でも天才」と言われる作家であり、油絵にも通じていた。子供の時は美術家志望だったのです。パロデイ作家とも言われる太宰が構造をまねて、その時の淋しい静子を哀しく描いたものと思うのです。静子は後で見せられた時「変な顔ですねー」と語っている。太宰は「本当に泣きそうだったのだも・・」と返答している。
真似だと思うのはあくまで、私個人の勝手な想像にすぎません。笑)

太宰は自分の自画像も描いている。彼の作品すべてが自画像ともいえるのである。
            

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南回廊

この記事は私の尊敬するブロ友でもある「南亭雑記」NANTEIさんの「桜桃忌」をトラックバックしたものです。
実は二人ともトラックバックの意味とやり方を良く分からず、ここに記事の一端を公開させていただきました。是非とも素晴らしい「南亭雑記」NANTEIさんのブログにご訪問なさってはいかがでしょうか!

記事の下の青く書かれた南回廊をクリックされますとリンクされます!

6月19日は桜桃忌。 桜桃忌はご存じ太宰治の忌日のことである。 太宰治は日本文学に親しんだ人なら、一度は洗礼を受けた筈で、 その後好きになるか嫌いになるかはそれぞれだったろうけど、 今も人気の作家であることは間違いない。 私も人並みに全集を揃えたことがあって、 傾倒とはいかないまでも太宰ファンを気取っていた時期があった。 無頼派に挙げられているが、太宰治はどちらかというと浪漫派の系譜に連なっているという...
南回廊

                        

桜桃忌

   長女園子と長男正樹
 下連雀の自宅にて         "長女園子と長男正樹"
病弱な太宰は三つになった頃、乳母の手から子守のたけ(14歳)の手にわたされ、以後このたけと叔母きゑ(母たねの妹で、不幸な結婚生活の末、娘4人を連れて津島家に身を寄せていた)の手で育てられた。
夜は叔母の胸で眠り、たけの熱心な教育で本を読む事のとりことなった。
両親にあまり愛されない自分を「父母の本当の子ではない」と思い込み、それを確かめようと蔵の中の書き物を調べたり、出入りの大人たちにこっそり聞いて回ったりする妙にひがんだ子になっていくのである。

僅か39年の生涯で5回の自殺未遂を繰り返し、1948年(昭和23年)6月13日に玉川上水における愛人(山崎富栄)との入水心中により生命を絶つ。この事件は当時から様々な憶測を生み、愛人による無理心中説、狂言心中失敗説等が唱えられ文壇のみならず社会問題としても騒然となった。
2人の遺体が発見されたのは、奇しくも太宰の誕生日である6月19日の事であった。 この日は桜桃忌(おうとうき)として知られ、三鷹の禅林寺を多くの愛好家が訪れる。太宰が弟のように可愛がっていた弟子の田中英光が翌年の文化の日に墓前で自殺したのは例を見ない。 太宰治の出身地・青森県金木村(現・五所川原市金木町)でも桜桃忌の行事を行っていたが、生地金木には生誕を祝う祭りの方が相応しいとして、生誕90周年となる1999年(平成11年)から「太宰治生誕祭」に名称を改めた。

生前、太宰が好んだ果実が桜桃(さくらんぼ)で季節の果実であることから旧友である同郷の今官一(作家)が遺体が発見された日の翌年6月19日に、友人門弟一同の主催で遺族をも招待して盛んな宴が行われた。その日を「桜桃忌」と名ずけた。入水した翌日の深夜土手の上に太宰と富栄の下駄が置かれていた、駆けつけた妻の美智子はその下駄を放心したように抱き続けたという。
太田静子さん1948年8月1日、井伏鱒二たちの訪問を受け、「太宰の名誉作品に関する言動を一切慎む」という内容の誓約書を取られ、その引換に『斜陽』改装版の印税10万円を渡される。しかし津島家からの冷遇に耐えかね、1948年10月、この誓約を破る形で『斜陽日記』を刊行。この日記の内容に『斜陽』と重なる部分があまりに多かったため、太宰死後の捏造ではないかとの説を唱えられて悲しんだ。

48年に発表された桜桃の冒頭の一説である。
子供より親が大事、と思いたい。子供のために、などと古風な道学者みたいな事を殊勝らしく考えてみても、何、子供よりも、その親のほうが弱いのだ。少くとも、私の家庭においては、そうである。まさか、自分が老人になってから、子供に助けられ、世話になろうなどという図々しい虫(むし)のよい下心は、まったく持ち合わせてはいないけれども、この親は、その家庭において、常に子供たちのご機嫌(きげん)ばかり伺っている。子供、といっても、私のところの子供たちは、皆まだひどく幼い。長女は七歳、長男は四歳、次女は一歳である。それでも、既にそれぞれ、両親を圧倒し掛けている。父と母は、さながら子供たちの下男下女の趣きを呈しているのである。・・・


しかし太宰は「家庭の幸福。家庭の幸福。人生の最高の栄冠」と。実は幸福な家庭に憧れていたのである。しかし、「炉辺の幸福。どうしてそれが私には出来ないのだろう、、炉辺が怖くてならぬのである」(父)
逃れるように酒を飲みにいく。「地獄だ、地獄だ。」と思いながら酒を飲み二日も、三日も家に帰らない。そして「家庭の幸福は諸悪の本」「子供より親が大事。」「義のために遊んでいる。地獄の思いで遊んでいる、命を賭けて遊んでいる」「子は親がいるから育たない」などと自らに言い聞かせながら放蕩を続けていた。
故郷で終戦の知らせを聞いた太宰は上京し新生への希望に燃えていた。しかし、まもなく戦後の浮薄な現実に失望し反逆への生活に戻った。偽善と「自己肯定」を嫌い「如是我聞」で志賀直哉を痛烈に批判して自己の価値観と世間の常識との乖離に苦悩し敗北の文士といわれるようになった。
長女の園子は(婿養子津島雄二議員、元自民党津島派会長)の妻と成り次女は津島佑子で作家として活躍(離婚し子供を亡くしている)。愛人太田静子との不倫の子供は太田治子として作家生活に入った。しかし長男の正樹は体が弱く,今で言うダウン症で15歳で早くに亡くなった。この息子に心を痛め妻の美智子とのいさかいがあった。しかしこの小さな家庭で夕方4時頃からまいどの如く湯豆腐を食べながら酒を飲んでいた時が一番幸せだったとも語っている。「ヴィヨンの妻」で主人公の放蕩詩人の大谷が行きつけの居酒屋から大金を奪って逃げた事にも、「さっちゃんと坊やにあのお金で久し振りのいいお正月をさせたかったからです」と説明している。さっちゃんは「私たちは、生きていさえすればいいのよ」という。二人とも無頼派なのです。太宰の言う無頼派とはこういう人間なのである。反道徳的な行為にふけりながらも極めて人間的な一面を持っているのである。

共に入水した山崎富栄も全てを許し太宰に無償の貢献をしている。太宰からスタコラさっちゃんと呼ばれていた。「ヴィヨンの妻」の椿屋のさっちゃんと奇しくも名前が一緒なのは不思議である。太宰一流の優しさか?気の使い方かは分からない。

東大時代は殆ど学校にも行かず「日陰の生活」つまり左翼運動に明け暮れ三馬鹿とも「からす組」といわれた。1934年同人誌「青い花」を発刊した木山捷平、伊馬鵜平、小山祐士、詩人の中原中也らは四散した、残った檀一雄、山岸外史と私娼窟玉の井で放蕩三昧の生活をしていた。当時の太宰は「むなし、むなし、すべてがむなし」と言いながらアルコールとニコチンの無い健康的生活に憧れながらも酒とタバコをぶかぶか吸い借金をしていた。と檀は言っている。共に無頼漢を名乗り無頼漢こそ優しい愛のある男なのだと自らの裏切り、偽善に反省を込めた言葉が「むなし」と言う言葉になったのだと思う。最後まで都会に憧れ田舎者に終わった気の弱い男であったと今官一は述壊している。入水の直前は激しい喀血を繰り返し、死を覚悟していた様子もある。富栄が青酸カリを隠し持っている事に怯え出版社の人と必死に探した事も在り、「生きる」事へのかすかな望みが合ったのではと推理される面もある。しかし、妻美智子との気まずさ、治子の出産、富栄との関係から既に死ぬ意外に道は無い環境であった。太宰の女関係には何処か、打算的で暗いものがあリ周りの先輩文壇からは好まれててはいなかったのである。



降りしきる雨の中、6月19日折り重なるように二人の遺体が発見された。

遺体が上ったときには檀一雄は姿を現さなかった。又山岸外史は太宰の遺体が上った玉川上水で太宰の顔を見ようとしたが関係者らに断られ、「どうして俺に・・」と怒った。「汝、姦淫をやめよ」と叫んでいる。読売新聞の報道員が乱暴に太宰の遺体を見ようとしたため太宰の関係者といざこざに成り山岸も、腹が立っての言葉と思う。新潮社の太宰と一番親密だった野原一夫氏が証言している。ふたりの遺体は紐で固く結ばれていたが、太宰が激しく抵抗した形跡が歴然と残っていた。このため一部では「太宰は決行直前になって気が変わったが、山崎が強引に水の中へ引きずり込んだのだ」との説もささやかれた.親友の亀井勝一郎はこの説を肯定している。
又太宰とは生前一度も遭ったことの無い評論家の奥野健男は「人の死をそのようにいう事自体、真に失礼な事だ」と怒りを表している。
全くの私見だが二人は合意してウイスキーに青酸カリを入れ先に太宰が飲み、富栄が帯で腰を固く締め土手を滑る様に玉川に落ち込んだのだと思う。文壇、新聞は富栄を悪者扱いする報道が多く可成り偏向意見も多い。遺体が上がって太宰は立派な棺で運ばれたが、残った富栄の遺体は雨の中、筵を掛けてそのままにさらされていた。傍で見ていた父親親族の悲しさはいかばかりかと思うのである。何時の時代も権威あるものと弱者の格差は同じだと痛感する次第です。
聖書が一番の愛読書だった太宰は富栄と共に神の園で永遠の夫婦として祝福されていると信じたい。

人生の不安と苦悩を独自のスタイルでユーモアと「道化のサービス」で読者に語りかけるような文章で簡潔に描き、若者の心を完全に捉えたのである。人間津島修治は死すとも今尚、世界中で愛読される太宰文学はこれからも、永遠に燃え続けるであろうと思う。太宰治は永劫に読者の心の中に生きているのである。


蛇足
憚りながら言わせて戴きますと太宰は師匠の井伏宅を訪問したときは必ず将棋を指していたらしく可なりの棋力が在ったと想像され、唯一将棋好きと言う事、又太宰は犬を怖がり猫派なのと酒好きなのが私と似ているところで大宰フアンとなった次第です。笑)他のところは全く似て居ない事ははっきりしています。笑)             

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太宰治と山崎富栄の出会い

dazai_syasin.jpg 旧三鷹駅 

玉川上水            旧三鷹駅

 

富栄さんは大正八年東京の本郷で生まれた。父の晴弘氏はお茶の水に日本で最初の美容学校を設立した人で、その学校の後継者になる事を期待されていた。昭和19年暮れ、富栄さんは三井物産社員奥名修一氏と結婚したが赴任先のマニラで召集され戦闘で行方不明となった。戦後21年の春に義姉と共に鎌倉の長谷で美容院を開いたが、その年の11月に三鷹に移りミタカ美容院に勤め夜は進駐軍専用のキャバレー内の美容室で働く様になった。富栄さんが太宰と知りあったのは、22年3月27日の夜である。同じ職場で働く今野貞子と言う友人から紹介されたのである。三鷹の町を飲み歩いていた太宰と屋台で今野さんと知り合い、その後、27日の夜屋台のうどん屋で飲んでいたとき、二人で太宰に会い、富栄は太宰と運命の出会いをしたのである。実は、富栄の夭折した次兄も太宰と同年で弘前高校の卒業生であったのだ、兄の話でも聞けるかと今野に紹介して欲しいとたのんでいたのである。3月27日と言うと、太田静子さんから懐妊をうち明けられた頃である。
相談を受けた静子には「よかったねー・・・」とは言ったが太宰の内心は複雑であった、師の井伏の媒酌で美智子と結婚したときに約束した「家庭を大切にします。嘘は言いません。・・・」
その約束を破った事になる。

富栄さんはその前の年の秋から「千草」の真向かいの2階(大家野川氏)に下宿していた。千草は太宰が学生の頃から贔屓にしていた小料理屋である。富栄と太宰は急速に親しくなり富栄の日記によると5月頃結ばれたようである。太宰は千草の2階を仕事場として富栄の看護を受けながら精力的に執筆を続けていた。富栄の代筆のお陰でもある。美智子もよく代筆していた。
頻繁な来客にこまめに応対し、よく働く女性であった。太宰からスタコラさッちゃんと呼ばれていたが学生時代からの綽名だったらしい。印税、原稿料の前借、仕送り(井伏氏宅に送られていた)にでも家計は苦しく富栄の貯金も身を切るようになった。また妻の美智子の回想記には「電気も付けられず、ローソクで暮らしていた・・」と記されている。酷い浪費家ではあったが周りのジャーナリスト、青年文士等の饗応にほとんど使っていたのである。

11月に治子が生まれ太田静子も最初は兄弟に助けられていたが家計が苦しく弟を連れて千草を訪れ治子の養育費の請求をした。太宰に言われるとおり律儀な富栄は一万円を為替で送金した。但し毎月の契約ではなかったようである。この頃から富栄は嫉妬心が燃え上がり、太宰に「私も子供が欲しい・・」と言い出し太宰は「お前には修治の修が残っているじゃないか・」と慰めていた。

喀血を仕出したのもこの頃で富栄の懸命な看護で医者嫌いの太宰の腕に、ビタミン注射を打つ毎日で在った。太宰の人生の総決算とも言うべき「人間失格」も一部千草で代筆を手伝ったり、太宰が最も信頼していた古田 晁(ふるた あきら、1906年1月13日 - 1973年10月30日)、出版人、筑摩書房の創業者)の奇遇先大宮へも一緒に同行した。「人間失格」は23年5月12日に完成している。新潮社の野原一夫の話によると、入水の前日の6月12日に、一人で大宮市の宇治病院の古田 晁を訪ねたのも事実で、生憎古田 晁は不在で病院長の娘の顔見知りの節子さんに合っている、グレーのズボンに白いワイシャツで、確か下駄履きだったと記憶していると語っているが、とすれば、太宰が玉川に入水した時と同じ服装である。死の前日に、何故、三鷹から遠く大宮まで古田さんを訪ねたのであろうか。最後の暇乞いに行ったのだろうか?古田も「俺に会っていても、生きることは無理だったろう」と語っている。
 

 富栄は、そんな孤独な晩年の太宰治にとって、最も完全な母であり、姉であり、妹であり、侍女であり、看護婦でもあった。静子との仲、治子の出産と富栄を苦しめたが心の片隅では在り難さと愛情が在ったのでは思われる。結局、二人は出会いの言葉「死ぬ気で恋愛をして見ないか・・」と太宰の死を漂わす言葉が一直線に玉川へと流れた感じがする。勿論妻子ある男に惚れたのだから父親にも怒られ、「すぐ帰宅しなさい」とも言われて居たが妻に成りきった一途な富栄の気持を動かす何者でもなかった。昭和23年6月13日深更、近くに流れる玉川上水に身を投じたのである。太宰は「人間失格」全編の発表を待たずして逝ったのである。

昭和21年秋 銀座「ルパン」で坂口安吾と語る。安吾の隣にいた織田作之助と楽しく語る。この写真が遺影となった。
太宰が「BAR・ルパン」でくつろぐこの有名な写真には、ちょっとしたエピソードがある。撮影者の林忠彦氏によると、このとき林氏は
織田作之助(右写真)を撮っていたそうだ。するとベロベロに酔っぱらった太宰が「おい、俺も撮れよ~。織田作ばっかり撮ってないで、
俺も撮れよ~」と絡んでくるので、“うるさい男だな”と思いつつ、最後の1本のフラッシュバルブで太宰をついでに撮ったそうだ。


現:永塚葬儀社
山崎富栄と親しくなった1947(昭和22)年9月頃から、彼女の下宿先の野川家2階も仕事場にしていました。太宰最後の日、ここから2人で玉川上水へ向かいます。

そして最期の日記となった23年6月13日に彼女は次のように記す。

遺書をお書きになり御一緒につれていっていただく
みなさん さようなら(中略)奥様すみません
修治さんは肺結核で左の胸に二度目の水が溜り、このごろでは痛い痛いと仰言るの、もうだめなのです。
みんなしていじめ殺すのです。
いつも泣いていました。
豊島先生を一番尊敬して愛しておられました。
野平さん、石井さん、亀島さん、太宰さんのおうちのこと見てあげて下さい。園子ちゃんごめんなさいね。(後略)
23年9月「愛は死と共に」山崎富栄著 石狩書房刊、(この本は太宰の友人、文壇からの反対で出版が一時拒否されていた。)

●妻に宛てた太宰の遺書(抜粋)

「美知様 誰よりもお前を愛していました」
「長居するだけみんなを苦しめこちらも苦しい、堪忍して下されたく」
「皆、子供はあまり出来ないようですけど陽気に育てて下さい。あなたを嫌いになったから死ぬのでは無いのです。小説を書くのがいやになったからです。みんな、いやしい欲張りばかり。井伏さんは悪人です。」

●富栄が死の当日、同じ愛人の太田静子に宛てた手紙

「太宰さんは、お弱いかたなので、貴女やわたしや、その他の人達にまで、おつくし出来ないのです。
わたしは太宰さんが好きなので、ご一緒に死にます。
太田様のこと(※治子出産のこと)は、太宰さんも、お書きになりましたけど、後の事は、お友達のかたが、下曽我(※太田の家)へおいでになることと存じます。」

●富栄の公式遺書

「私ばかり幸せな死にかたをしてすみません。
奥名(※4年前に戦場で行方不明。新婚生活は12日間しかなかった)と少し長い生活ができて、愛情でも増えてきましたらこんな結果ともならずに
すんだかもわかりません。
山崎の姓に返ってから(※まだ奥名籍だった)死にたいと願っていましたが・・・
骨は本当は太宰さんのお隣りにでも入れて頂ければ本望なのですけれど、それは余りにも虫のよい願いだと知っております。
太宰さんと初めてお目もじしたとき他に二、三人のお友達と御一緒でいらっしゃいましたが、お話しを伺っております時に私の心にピンピン触れるものがありました。
奥名以上の愛情を感じてしまいました。
御家庭を持っていらっしゃるお方で私も考えましたけれど、女として生き女として死にとうございます。
あの世へ行ったら太宰さんの御両親様にも御あいさつしてきっと信じて頂くつもりです。
愛して愛して治さんを幸せにしてみせます。
せめてもう一、二年生きていようと思ったのですが、妻は夫と共にどこまでも歩みとうございますもの。
ただ御両親のお悲しみと今後が気掛りです。」


 2人の命日“桜桃忌”にちなみ、墓前にはサクランボが。側面に戒名と“富栄”の文字があったが、世間体を
はばかってか享年も命日も彫られていなかった。







 普段は淵無しのめがねを掛けた凛とした美人といわれたが太宰が眼鏡を掛けた女性は嫌いというので眼鏡をはずしていた。千草の階段を転がるようにガタガタと音を立てていたという。







蛇足
6・19日の「桜桃忌」に再び記事をアップしたいと思いますので見て頂ければ幸甚でございます。




参考文書

「愛は死と共に」山崎富栄 23年9月石狩書房

「太宰治論」奥野健男

「回想太宰治」野原一夫

「太宰治」福田清人

「小説太宰治」檀一雄

「人間太宰治」山岸外史

「無頼派の祈り」亀井勝一郎ほか多数                         

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    プロフィール

    荒野鷹虎

    Author:荒野鷹虎
    何時までも心は若者でありたい!。
    (男性)道産子、AB型

    熱烈な阪神ファン。
    囲碁・将棋の大フアン、スポーツ大好き、
    太宰治に傾倒、自らも人間失格を自称、クラシックも好き、気の多い多趣味な、多酒味男、政治の腐敗に喝!

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