2014.04.26(土)
『幕末の志士と明治天皇の集合写真」
幕末の謎に興味のあるお方には興味深い記事をいつもながらの”横田めぐみさんは生きている。”「タマちゃんの暇つぶし」 から引用致しました。必見の価値があると思いますので紹介させて頂きました。
是非のぞいてみてください!以下は全て原文です。
ちなみに明治天皇と言われている方がこのお方のようです。

確かに似てなくもないですね。
ちなみにカラー版もあるんですね。

玉蔵さんの ★フルベッキ博士の集合写真について
★フルベッキ博士の集合写真について
玉蔵さんの ★フルベッキ博士の集合写真について http://1tamachan.blog31.fc2.com/blog-entry-9148.html#more
て前の記事で引用した中丸薫さんの記事。
ちょっと質問があったので書いときます。
イエズス会のフルベッキの周りに集まった、明治維新の志士たちと一緒に写っている写真を見たことがあるでしょうか。それが後の明治天皇になる大室寅之祐だったということです。
この写真。
後の明治天皇の大室寅之助さん以外にも、西郷隆盛さんとか、坂本竜馬さん、桂小五郎さん、勝海舟とか。
幕末の志士の集合写真。幕末オールスター写真と言われているものです。
載せときますね。
フルベッキ群像写真(ふるべっきぐんぞうしゃしん)。
オランダ出身でアメリカ・オランダ改革派教会から派遣された宣教師グイド・フルベッキとその子を囲んだ44名の武士による集合写真。
「フルベッキ写真」「フルベッキと塾生たち」とも呼ばれる。
フルベッキさんと言うのは、明治時代の神学者で、イエズス会の宣教師さんです。
この写真は一方で、単に佐賀藩の藩校(致遠館)の学生の集合写真とも言われています。
錚々たる幕末の志士の写真か、はたまた単なる学生さん集合写真なのか。
見解が分かれるところです。
クリックすると大きくなります。見ると錚々たるメンバーが

有名なフルベッキ写真ですが、名前に間違いがあります。
陸奥宗則と高杉晋作があべこべになっているのです。
顔がひょろ長く、龍馬の副官だった陸奥は当然、龍馬のすぐ後ろ(32)にいます。
25.陸奥宗則 と書かれているのは、「 喧嘩太郎 」 高杉晋作です。
面構えからして「 喧嘩太郎 」そのものです。
高杉の有名な写真はひょろ長い顔ですが、あれは結核になってやせ細った時の写真です。
また、左下に慶応元年正月とありますが、実際は慶応元年3月5日です。
ので、これまで間違って流布されていた点を2点、ここで訂正しておきます。
そして、この写真の左端に幕閣からただ一人:勝海舟が出席していいますが、彼がこの会議の主催者であり、影のプロデューサーが徳川慶喜だったのです。

明治から400年程さかのぼること戦国時代。
西日本には多くのキリシタン大名がいた。
その中で、当時、一番最初にキリスト教の布教を許した大名。
大内義隆(おおうちよしたか)さんという大名がいますた。
こんな大きな勢力を誇った大内義隆ですが、その後、毛利家に滅ぼされてしまいます。
でも、その大内義隆の血筋が山口県田布施町に生き残ったと言われています。
その大内氏の子孫が明治維新のころになって、復活し
伊藤博文さんとか大村寅之助(後の明治天皇)になったと言われているのです。
とにかく明治維新というのは、薩摩の西郷隆盛さんや、大内出身者。
みんなで仲良く南朝革命!
そしてなぜかその南朝はイエズス会ともつながりがある。
そういう話だったようです。
▲天皇家は南北朝時代に権力争いから二つに分裂して北朝と南朝に別れました。以後は北朝が代々の天皇家を継承してきましたが、明治維新の時、長州と岩倉具視などが画策して北朝から南朝に入れ替わったようです。北朝の天皇だった孝明天皇とその皇子睦仁は亡き者にされ、長年南朝を匿ってきた長州から大室寅之祐という人物が明治天皇に担ぎ出されたようです。明治天皇自身が南朝であると明言していますから事実だとすれば面白い歴史の謎ときとなると思いますね~‼。
是非のぞいてみてください!以下は全て原文です。
ちなみに明治天皇と言われている方がこのお方のようです。

確かに似てなくもないですね。
ちなみにカラー版もあるんですね。

玉蔵さんの ★フルベッキ博士の集合写真について
★フルベッキ博士の集合写真について
玉蔵さんの ★フルベッキ博士の集合写真について http://1tamachan.blog31.fc2.com/blog-entry-9148.html#more
て前の記事で引用した中丸薫さんの記事。
ちょっと質問があったので書いときます。
イエズス会のフルベッキの周りに集まった、明治維新の志士たちと一緒に写っている写真を見たことがあるでしょうか。それが後の明治天皇になる大室寅之祐だったということです。
この写真。
後の明治天皇の大室寅之助さん以外にも、西郷隆盛さんとか、坂本竜馬さん、桂小五郎さん、勝海舟とか。
幕末の志士の集合写真。幕末オールスター写真と言われているものです。
載せときますね。
フルベッキ群像写真(ふるべっきぐんぞうしゃしん)。
オランダ出身でアメリカ・オランダ改革派教会から派遣された宣教師グイド・フルベッキとその子を囲んだ44名の武士による集合写真。
「フルベッキ写真」「フルベッキと塾生たち」とも呼ばれる。
フルベッキさんと言うのは、明治時代の神学者で、イエズス会の宣教師さんです。
この写真は一方で、単に佐賀藩の藩校(致遠館)の学生の集合写真とも言われています。
錚々たる幕末の志士の写真か、はたまた単なる学生さん集合写真なのか。
見解が分かれるところです。
クリックすると大きくなります。見ると錚々たるメンバーが

有名なフルベッキ写真ですが、名前に間違いがあります。
陸奥宗則と高杉晋作があべこべになっているのです。
顔がひょろ長く、龍馬の副官だった陸奥は当然、龍馬のすぐ後ろ(32)にいます。
25.陸奥宗則 と書かれているのは、「 喧嘩太郎 」 高杉晋作です。
面構えからして「 喧嘩太郎 」そのものです。
高杉の有名な写真はひょろ長い顔ですが、あれは結核になってやせ細った時の写真です。
また、左下に慶応元年正月とありますが、実際は慶応元年3月5日です。
ので、これまで間違って流布されていた点を2点、ここで訂正しておきます。
そして、この写真の左端に幕閣からただ一人:勝海舟が出席していいますが、彼がこの会議の主催者であり、影のプロデューサーが徳川慶喜だったのです。

明治から400年程さかのぼること戦国時代。
西日本には多くのキリシタン大名がいた。
その中で、当時、一番最初にキリスト教の布教を許した大名。
大内義隆(おおうちよしたか)さんという大名がいますた。
こんな大きな勢力を誇った大内義隆ですが、その後、毛利家に滅ぼされてしまいます。
でも、その大内義隆の血筋が山口県田布施町に生き残ったと言われています。
その大内氏の子孫が明治維新のころになって、復活し
伊藤博文さんとか大村寅之助(後の明治天皇)になったと言われているのです。
とにかく明治維新というのは、薩摩の西郷隆盛さんや、大内出身者。
みんなで仲良く南朝革命!
そしてなぜかその南朝はイエズス会ともつながりがある。
そういう話だったようです。
▲天皇家は南北朝時代に権力争いから二つに分裂して北朝と南朝に別れました。以後は北朝が代々の天皇家を継承してきましたが、明治維新の時、長州と岩倉具視などが画策して北朝から南朝に入れ替わったようです。北朝の天皇だった孝明天皇とその皇子睦仁は亡き者にされ、長年南朝を匿ってきた長州から大室寅之祐という人物が明治天皇に担ぎ出されたようです。明治天皇自身が南朝であると明言していますから事実だとすれば面白い歴史の謎ときとなると思いますね~‼。